MEMO

■先日、「借りぐらしのアリエッティ」をレンタルして見ました。なんか評判はあまりよくないみたいだったので全然期待せずに鑑賞したのですが、それがよかったのか、すごくいい映画だなぁと思いました。余計なものがなく、シンプルで、すっと胸の中に入ってくる感じがよかったです。(以下ネタバレあり感想なので注意)

この映画、小人の少女、アリエッティと人間の少年、翔という2人が物語の軸になっているんですが、もうこの時点で儚いんですよね。だって、最後には別れがあると予感させられるじゃないですか(もちろんアリエッティが人間になって結ばれる、みたいなことだってやれるけど、いくらなんでもそんな興ざめENDなわけないし)。それが物語全体のなんとも言えないトーンを醸し出しています。

あともう1つポイントなのが翔のキャラクター。普通にお目に掛かるレベルをちょっと超えるお金持ちの家の子で、しかも病弱な美少年っていう現実味のない、まさに絵に描いたような設定になっています。で、本来なら人間側の翔に自然と感情移入してしまいがちなところなんだけど、これらの設定のせいで若干距離を置かれてしまうんですね。
お金持ちっていうのは、現代の日本を舞台にしているのにどこか浮き世離れした世界を描くことにも貢献していますが、ここまでやるのにはまだ理由がある気がしました。

これは多分、アリエッティの存在が客席から見ても、翔から見てもファンタジーなのと同じように、翔に関してもアリエッティから見ても、客席から見てもファンタジーな存在になるように描かれているのかなぁと思いました。つまり、アリエッティと翔は感情移入する対象としては対等の存在になっていると。

アリエッティにとって、翔の存在がファンタジーだとすると対する現実側にいるのが、野性的で頼りがいのあるスピラーとなるわけですが、翔の場合はこれが「病気と向き合い生きる気持ち」となります。一時のファンタジーを共有し、胸に刻んだ後、生き残るための現実へとそれぞれ帰還していくという意味では、やっぱり2人は対等の存在と言えます。
そしてそんな2人のファンタジーを鑑賞し、胸に刻んだ客席の人達は、映画館の外という現実へとそれぞれ帰還していくわけです。