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たからもの

昔は今に比べて「当たりつき」がよくあった気がします。
自動販売機は当たりつきがあたりまえで、
いざジュースを買おうと思って自動販売機に行ったら
当たりなしのやつだったりすると、
「ちぇっ」なんて思いました。

あとは、アイスクリームとか。
半透明のカップに入ったかき氷には、
底のくぼんでいる部分に
牛乳ビンのふた(←これも今はないらしいけど)を
一回り小さくしたようなものがついていて、
当たりとかはずれとか書いてあるやつがありました。
アイスバーにも木のバーの先端部分に
当たりだと「あたり」って刻印されていて、
ちょっとずつ食べていって、
最初の「あ」が出るか出ないかのところでは
いつもドキドキして、
「神様どうか当たりますように」なんて
お願いしていたものでした。

そんなことで神様にお願いするのは大げさかもしれませんね。
ところで、神様って信じたことありますか。
受験や出産や交通安全の祈願によく買う「お守り」とかありますけど、
そういうものを持っていたことがある人を含めるのなら、
ほとんどの人が信じたことがあるのかもしれません。
でも、「俺、神様信じてるんだ」なんて口に出す人は
てんで見ないですよね。
まあ、神様なんて、素直に認めたくないような、
そんな存在ではあります。

でも、それは「どこかのだれか」を
神(=人知を超えた超人)だと認めることが嫌なだけで、
もっと、例えば、自然そのものが神であるとか、
精神や心などの、
”目には見えないけれど大切なもの”の象徴としての
神様なのだと考えると、ちょっとは受け入れやすくなる気がします。

さて、そんなアイスごときで神様にお願いしていた僕にも、
もっと本格的に、神様を信じてお願いをしようとしたことが
一度だけありました。
ずいぶん前の、小さい頃の話なので、
実は何をお願いしたのかはさっぱり覚えていないのですが、
その時に取った僕の行動の、一部始終だけは
今でもはっきりと覚えています。

その日、僕は学校から帰ってくると
ちょっとだるいとか何とか言って、ずーっとふとんの中で
寝ていました。
当然夜寝られなくなるのですが、それは計算です。
家族が寝静まった真夜中にふとんから飛び出した僕は、
あらかじめ準備していた55個の小箱を抱えて
家を後にします。

いつも見慣れている近所の風景でも、
真夜中だとがらっと違います。
空は、曇っているのか星はなく、そして肌寒く、
しかし風はない、そんな天気でした。
僕はたくさんの小箱を手に持ったままダッシュで
目的の場所まで走りました。
遠くで犬の遠吠えがわおーんと聞こえてきたり、
虫の鳴き声がりーんと聞こえてきたりしましたが、
お構いなしに走ります。
でもたくさんの荷物を抱えているからか、
すぐにばてて、歩いてしまいます。
でも少ししたら走って、また歩いて、走って、
そんなことの繰り返して、ある場所までやってきました。

そこは、神社へと続く坂道です。
神社は、この坂道を登り切った山の中腹にあります。
道の両脇にはずらーっと、
高い木がたくさん植わっていています。

あたりはやっぱり静かで、
自分の「はあはあ」という、走って少し荒くなった
息づかいが耳障りなほどでした。

僕は一旦、たくさんの小箱を
坂道の入り口にあたる道路の真ん中へ置き、
そこから1個だけ取ると、1本の木の根本に来ました。
そこで、あらかじめズボンのうしろのポケットに入れていた
スコップを取り出し、穴を掘り始めました。
地面はとても掘りやすく、
掘ると「ざっく」と気持ちのいい音がしました。
何度もざっく、ざっくと掘りました。
ある程度掘ると、できた穴に持ってきた小箱を入れて、
その上から手で土をかぶせます。
最後にぱんぱんと、軽く叩いて土を固めます。
ひととおりの作業を終えると、
また静寂がやってきました。
今度は息も落ち着きを取り戻しているので、ますます静かです。
耳の奥で力強く鳴る「キーン」には、
自分が、この世界で生き残ったたった一人なんじゃないかと
信じ込んでしまいそうになります。
そんな不安な気分にさせる「キーン」は、
次の木の根本にスコップを差し込む瞬間まで
僕の耳を、僕の心を支配続けます。

そんな「ざっく」と「キーン」を55回繰り返し、
僕は小箱を全部、それぞれの木の根元に植えました。

ちなみに、この55個の小箱の中には、
僕の宝物が55個、入っていました。
しかし、今となってはどんな宝物が入っていたかは忘れてしまいました。

宝物を55個、穴に埋めた今、
あと僕がやらなくちゃならないのは、神様にお願いしたいことを、
心の中で強く念じるだけです。
ちなみに、このお願いのしかたについては誰に聞いたものでもなく、
自分で思いついたものです。
どうしてこんなこと、考えついたのかは思い出せません。

まあ、今は、僕が神様にお願いをしようとしていたことを
書いているだけなので、
お願いの内容や、小箱の中身や、お願い方法の思いつき方なんてことは
思い出すにも及ばないことなんでしょう。
とにかく僕は、こうやって神様にお願いをすれば叶うんじゃないかって
信じて、実行に移したのでした。
もしかすると、ヘンに思われるかもしれません。
だけど、昔から続いている伝統的な風習や祭事だって、
元をたどれば、誰かの勝手な思いつきで始まったのかもしれません。
だとすると、世界各国のいたるところで、
ヘンなことが受け継がれていて、それが神聖な儀式として
くそまじめな顔をして、執り行なわれていることになります。
ちょっとおかしいですね。

さて、話を戻しますよ。
小箱を全部埋め終わった僕は、神社へと続く道路の入口の、
ちょうどまん中に立ち、お願いをしようとしていました。
だけど、ちょうどまさにその時に
55個の箱の中から、「えーん、えーん」と、
泣き声が聞こえてきたのでした。
その声は、最初はひとつ、そしてまたひとつと増えていきました。
ひとつひとつはすごくか細くて、
こんなに静かな夜にでも、聞き耳を立てないと聞こえないくらいでしたが、
それが55個の大合唱ともなると、
とても無視できるようなものではありませんでした。

気が散った僕は、
ふたたびズボンのうしろのポケットからスコップを取り出すと、
一つづつ、さっき掘ったばかりの穴を掘り返し、
すっかり小箱を掘り出しました。

そして、土にまみれた55個の小箱を抱えて、
一目散にその場を走り去りました。
家に帰って、自分の机の上に小箱たちを放り出すと、
ふとんにもぐり込みました。
すると、信じられないことに、
ふとんの中は、小箱を持って飛び出す前と
かわらないくらい、あったかいのです。
まるで、真夜中に家を抜け出し、神社に行って小箱を埋めて、
また掘り出し、帰ってきたまでのことが
夢だったかのように、ぬくぬくでした。
おかげで朝までぐっすり眠れたのでした。

というわけで、結局、願い事はできなかったのですが、
この時のことはなぜか強く印象に残っているわけです。
ちなみに、神様に捧げようとして小箱に入れた、
55個の宝物についてですが、
(何を入れたか忘れるくらいですから)今はひとつも手元にありません。
捨ててしまったんでしょうね。
でも、捨てたことすら覚えていません。
「いつの間にか、なかった」と言った方が正確かもしれません。
おそらく、”泣き声”にも気づかなかったんでしょう。

まあ、小さい頃の宝物なんて、そんなものです。