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今回紹介するのは前回と同じゲーム雑誌の記事なんですが、
今ではポケットモンスターの作者として知られる
田尻智さんが「MOTHER」について語ったものです。
田尻さんは「MOTHER」のファンとして有名ですが、
今回紹介する記事では珍しく批判的な意見を含んだ
文章になっています(もちろん愛のあるものですが)。

なおこの文章は発売当時に書かれたものであり、
あくまで過去の一地点での田尻さんの考え方です。
今現在のゲームを取り巻く環境等について
書かれたものではないことを踏まえてお読みください。
しかし、今のゲーム文化が抱える様々な問題への回答は
意外とこういうところから得られるものなのかもしれません。















僕がゲームをしている場所/連載3回
『MOTHER』(任天堂)
ゲームでなければできない夢があり、嘘がある。
文/田尻智

映画的演出と言葉のRPG

久しぶりに映画館へ出かけた。このところ映画といえば、ほとんどレンタルビデオで見ることが多かったけれど、やっぱりこれだけはスクリーンで観たい、と思った「インディージョーンズ最後の聖戦」。

この映画は僕に、期待通りの実に映画らしいオモシロさを堪能させてくれた。家の14インチのテレビでビデオ(映画)を観たとき、しばしば「あー、これは映画館で観たかったな」とクヤシイ思いをすることがある。しかし「インディージョーンズ最後の聖戦」は、まさしく映画館のための映画だった。もし自宅のテレビで観たとしても、この痛快なアドベンチャーの迫力を100パーセント満喫はできなかっただろう。

やっぱり映画のオモシロサ、楽しさは、テレビやビデオでは味わえないモノだ。そこには映画でなければできない夢があり、嘘がある。そしてそれはビデオゲームの世界でも同じだと思う。


糸井重里氏の『マザー』は、明快なストーリー性のある、スピルバーグ映画を思わせるロールプレイングゲームだ。もちろん場面のあちこちに映画的手法がいくつも散りばめられているのだけれど、ここではそれをひとつひとつ説明するのは避けたい。『マザー』をこれから遊ぶひとたちもいるのだから、内容を先にばらしてしまっては失礼だと思う。

つまるところ『マザー』の魅力は、この映画撮影的センスの画面と音楽、そして糸井氏の考え抜かれたシナリオといえる。しかし、逆にゲーム本体、すなわちゲームデザインについては、納得のできない点がいくつか挙げられるのだ。

たとえばそれは広大なマップ。主人公のキャラクターの大きさにリアルに対比させた、その広大なマップは、かなり多くの人々を驚嘆させたようだ。僕は「ビデオゲームは遊ぶ人を不快にさせてはならない」と日頃から思っている。糸井氏は画面上に、よりリアルな町や森を表現したかったに違いないけれど、広すぎて歩くのがつらい人も多かった。遊ぶ人たちに無意味な負担をかける可能性があるなら、そのリアルさはデフォルメされてしかるべきだ。それはビデオゲームに許される嘘だと思う。

もうひとつは敵キャラクター(モンスター)の分布バランスについて。生き物の生態系にはヒエラルキーというものがあって、一般に小さいものは弱く大きいものは強いと言う自然法則がある。僕たちはこのことを体で本能的に理解しているから、画面に小さいスライムが出てくれば(弱そうだ)と思うし、巨大なだいまじんが現れれば(強そうだ!)とたじろくわけだ。しかし『マザー』の場合、舞台設定が現代アメリカというせいもあるのか、敵キャラクターのヒエラルキーがそれほどはっきりしていない。デビルカーやマッドカーより小さいロープの方が強いし、デビルトラックやマッドトラックよりも小さいクマの方が手強かったりする。そのせいか敵キャラクターがマップ上に割と無秩序に分布されているような印象があるのだ。

もうひとつはゲーム中にプレイヤーに与えられる情報がいまひとつ不足していること。ロールプレイングゲーム中の登場人物のセリフは、ゲームを解くためのヒントを授けてくれるものと、ゲームに色をつけるための遊びのセリフがある。話によると『マザー』の開発途中で、プログラムの記憶容量(メモリー)が足りなくなり、その時遊びのセリフを極力残してヒントの方を泣く泣く削ったそうだ。ヒントを捨てて遊びを取ったところは糸井氏の大英断であり、『マザー』を特徴あるソフトにしているけれども、それでもゲーム自体が不親切になってしまった事実は残った。

こうしたことが僕には気になって、やはり文章のプロが手掛けたシナリオが素晴らしいものであるだけに、これならいっそ小説やあるいは映画にした方が『マザー』は、もっとおもしろくなったかも知れない、と思ってしまうのだ。しかし、これらゲームデザイン上の難点に関して糸井氏はそれほどクリティカルな問題とは考えていないようだ。糸井氏は今回の『マザー』のゲームデザインについて「僕はビデオゲーム創りにおける十戒をあえて壊したのだ」と語った。

だが果たして糸井氏が言うようなゲーム創りの十戒が、現在のビデオ(テレビ)ゲームに確立されているかというとあやしい話だ。現在発売されている多くのソフトを見てみると、その出き不出きにはあまりにも差があるし、創作ノウハウは、メーカーごとにはあっても、全体での共通項は見い出せない。

そう、ゲームの十戒を理解し守って作っていく以前に、十戒はないのである。それはビデオゲーム文化が発生してから、まだ十余年しか経っていないのだから、当たり前といえば当たり前といえるだろう。十戒はまだ作られていないのだ。作られていないものは、まだ壊すことはできない。これから作っていくのだ。


でもゲームに十戒がないというのは、実に素晴らしいことかもしれない。僕たちはまだ混沌としたビデオゲーム文化の創世記に、偶然にも立ち会っていることになるのだから。ビデオ(テレビ)ゲームが、これから無数の可能性を持って発展すると考えると、それだけで楽しくてたまらないではないか!

たじりさとし 1965年東京生まれ。現在(株)「ゲームフリーク」の代表。
ライター、ゲーム製作者として活躍中。ファミコンソフト「クインティ」の作者でもある。











以上、ファミコン必勝本(JICC出版局(現・宝島社))
1989年10月20日号より

今見ると、やけに細かい部分に焦点を絞っているようにも見受けられますが、
当時『マザー』は、かなりの話題作であったため、
ユーザーの評価もほぼ真っ二つ、賛否両論が上がりました。
それを受けてのこういう文章なんだと思われます。

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